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第65話 今は、塩パン

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-08-31 06:00:51

「くるみパンなら、右の奥」

 景都が迷わず言う。

「覚えてたの?」

「毎回二つ買ってたから」

 右奥の籠には、小さなくるみパンが並んでいる。夫婦だった頃、私はそれを二つトレーへ載せ、一つを景都へ渡していた。

「景都も好きだったでしょう」

「嫌いじゃないよ。でも、俺はクリームパンの方が好きだったんだ」

「え?」

 中央の棚を指す。丸いパンの表面に、粉砂糖が薄くかかっている。

「結婚してた時から?」

「ああ。君が毎回くるみパンを二つ買うから、二人とも好きなんだと思ってた」

「でも、景都も普通に食べてたでしょう」

「もらったものを、嫌いでもないのに断る理由がなかった」

 何年も続いた習慣の始まりは、それだけだったらしい。

 お互いに、相手も好きだと思い込み、同じパンを何年も食べていたらしい。

「夫婦なのに、知らなかったね」

「今、知った」

 景都はクリームパンを一つ取った。私はくるみパンへ手を伸ばしかけ、隣の塩パンをト
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    「くるみパンなら、右の奥」 景都が迷わず言う。「覚えてたの?」「毎回二つ買ってたから」 右奥の籠には、小さなくるみパンが並んでいる。夫婦だった頃、私はそれを二つトレーへ載せ、一つを景都へ渡していた。「景都も好きだったでしょう」「嫌いじゃないよ。でも、俺はクリームパンの方が好きだったんだ」「え?」 中央の棚を指す。丸いパンの表面に、粉砂糖が薄くかかっている。「結婚してた時から?」「ああ。君が毎回くるみパンを二つ買うから、二人とも好きなんだと思ってた」「でも、景都も普通に食べてたでしょう」「もらったものを、嫌いでもないのに断る理由がなかった」 何年も続いた習慣の始まりは、それだけだったらしい。 お互いに、相手も好きだと思い込み、同じパンを何年も食べていたらしい。「夫婦なのに、知らなかったね」「今、知った」 景都はクリームパンを一つ取った。私はくるみパンへ手を伸ばしかけ、隣の塩パンをトレーへ載せる。「くるみじゃないのか」「今は塩パンの方が好き」 景都はいつから変わったのか聞きかけ、私の顔を見て少し間を置いた。「聞いてもいいか?」「離婚して、一人でパン屋へ行くようになってからかな。甘いものより、塩気のあるものを選ぶことが増えた」 景都は私の塩パンを見下ろし、何かを確かめるように頷いた。「この店にも一人で来たのか?」「ここは久しぶり。全部の店を確認するつもり?」 紙袋の口を折りながら、「聞ける範囲で」と答えた。 景都は店名を一つ聞いただけで、その先を続けなかった。聞かれすぎるのは嫌だったはずなのに、止まられると少し落ち着かない。 会計を別々に済ませ、公園のベンチへ移る。紙袋を開けると、まだ温かい。 景都が私の塩パンへ目を向けた。「一口、食べていいか?」「自分のクリームパンがあるでしょう」「今の君が選ぶものを知りたい」 理由を付けられると断りにくい。端を少しちぎって渡すと、景都は大き

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     今さら付ける名前だからこそ、急に現実味が出た。 デート前日の夜、景都から三つのリンクが届いた。 和食店、イタリアン、ホテルのラウンジ。すべて駅から近く、土曜の昼でも予約が取れ、口コミには「静か」「接客が丁寧」と並んでいる。 一つ目を開いたところで、私は電話をかけた。「店は決めないって話、忘れた?」『決めてない。候補を三つ送っただけだ。三十六軒から絞った』 画面に並ぶ三つの整った店名を見直し、私は額へ手を当てた。「それ、決めてないんじゃなくて、ほとんど決めてる。しかも三十六軒からって、もっと悪いよ」 景都は本気で理由が腑に落ちていないらしい。『土曜の昼に二人で入れて、待ち時間が短い。君が苦手な食材も少ない』「それ、全部昔の情報でしょう。今は好きなものも変わってるかもしれない」『アレルギーは変わらない』「アレルギーはない。苦手なものの話」 短い沈黙が落ちた。「辛いもの、今は平気かもしれないよ。自分でも、まだ苦手かどうか分からない」『……そうだな』「明日は待ち合わせだけ決めよう。調べるのはいいけど、店まで決めてこないで」 電話の向こうで、景都が保存していた候補を閉じる気配がした。 景都は一度、長く息を吐いた。『分かった。リンクは消す?』「そこまでしなくていい。私は見ないから」『一番上は残席二だった』 予約画面まで進んでいたらしい。私が呆れると、景都は「見ただけだ」と真面目に弁解した。 なんの攻防なのか分からなくなり、二人とも顔を見合わせて笑った。 電話を切ったあと、私は一番上の和食店をもう一度開いた。写真は美味しそうだった。予約画面の名前欄まで進み、閉じる。 予約ボタンは押さずに画面を閉じた。明日の昼まで席が残っている保証はなかった。◇ 翌日、景都は十二時四十八分に中央改札前へ来ていた。「十二分早い」「一本早い電車に乗れた」「その言い訳、前にも聞いた」 景都の手に

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